イム・キムスールのプロフィール (1996年6月)



少女時代のこと-----国立芸術大学

私は、プノンペンで7人兄弟(兄5人、姉1人)の末っ子として生まれました。7人と言うと多いと思われるかもしれませんが,カンボジアでは普通です。父は、商人で、アパート経営もして、普通の暮らしでした。
私が、カンボジア民族舞踊を勉強したのは、国立芸術大学の教授をしていた3番目の兄のすすめです。兄は、大学で、外国の戯曲をカンボジア語に翻訳したり、演劇の本を書いたりしていました。その兄が、私が小学校を卒業する時、私に「踊りを勉強しないか?」と聞いたのです。芸術大学には、民族舞踊学科があり、そこには、小学校を卒業した子供達が入る特別のコースがあったのです。カンボジアの民族舞踊は手や足の関節を特別な形に曲げる必要がありそれには体の柔らかい子供の頃から訓練する必要があるからです。私は、その頃から民族舞踊にとても興味があったので、即座に「はい。」と答えました。
 学校は、半日は一般の教育、半日は民族舞踊などそれぞれの専門を勉強します。私は一生懸命勉強しました。3年生になって、それまでの民族舞踊のコースの他に、演劇の勉強も始めました。外国の大統領など偉い人がカンボジアを訪問した時、国の公式の歓迎の行事として民族舞踊を踊るのが私たち芸術大学の生徒の重要な活動のひとつで、私もいろいろな方の歓迎行事に参加しました。また、テレビにもよく出演しました。カンボジアのテレビは、一つのチャンネルしかなくて白黒放送でした。初めてテレビ出演したときは、父も母も自分の子供をテレビで見るなんで思いもかけないことだったので、自慢していました。私の踊りの活動が本格的になるにつれて、両親も私の選択した道に理解して、また以前のように優しくしてくれるようになりました。

台湾への留学

 私の勉強していたカンボジアの伝統演劇は、中国の京劇の影響を受けていました。このため、学校は10人の演劇コースの生徒達を台湾に給費留学生として派遣することを決めました。1年の予定でした。1973年12月プノムペンのポチントン空港で家族全員で見送ってくれました。もちろんボーイフレンドや友達も来てくれました。「さようならみんな!1年で戻るからね!泣かないで!寂しい顔をしないで!」
 台湾の学校は朝5時半に起きて6時に他の生徒さんと練習します。中国の京劇の基本や、バトン、歌などを練習しました。午後は中国語を勉強しました。寮に住んでいました。食事も学校の食堂で食べます。毎朝大体生豆腐を食べるからカンボジア人には最初はけっこう大変だったです。でも、家族からは、毎週手紙がきて、私の食べたいものもときどき送ってきていましたので、とても楽しい留学生活でした。
 台湾に来てから1年経ちましたが、私達にはまだまだ研究したり勉強したりしなければならないことが沢山残っていました。そこで、本国の大学や台湾の学校の校長と相談してもう1年期間が延長されることになりました。実は、私は、あまり嬉しくありませんでした。2年はちょっと長いな、と思ったからです。それでも、台湾での学生生活は、中国語を話せるようになったこともあって、楽しい毎日でした。奨学金も毎月大体使い切ってしまっていました。貯金する必要はないと考えていましたから。

クメールルージュ

 1975年の4月に入りました。カンボジアのお正月は4月の13、14、15日です。カンボジアでは、共産ゲリラと政府側の戦闘が激しくなっていたので、心配はしていましたが、それでも私たちは、故国を思いながら、お正月を思い思いに楽しみました。そのお正月も終わったある日、先輩が走ってきて大声で私に、「クメール・ルージュがプノムペンに入った。」と叫びました。「クメール・ルージュ」というのは、ポルポトという指導者に率いられた共産ゲリラで、それが、政府を倒したのです。
 でも、政治に関心のなかった私は、何か、大変なことが起こったとは感じましたが、それがどういう意味を持つのか、実感できませんでした。その後、一か月、二ヶ月と時は経ちましたが、それまで、月に何回も来ていた手紙が1通も来なくなり、カンボジアの家族との連絡は一切出来なくなってしまいました。段々寂しくなってきました。留学期限の12月には、私達は、寮から出なくてはなりませんし、台湾政府からの奨学金も終わりになってしまいます。その時に備えて、私たちは働きはじめました。私は、貯金はちょっとしか持っていなかったのですぐ仕事を探し、台湾にある日本の会社の工場で働くことになりました。いつも沢山の観客の前で踊ったりお芝居をしたりして、小さな芸術家としての誇りを持っていた私にとって、工場での労働はとてもつらかったです。でも生活の為にやらなくてはなりません。

難民としてフランスへ

 12月を過ぎて、カンボジアの情勢はもっとひどくなってきました。私たちは、カンボジアへ帰ることの希望を失っていきました。私達は、アメリカへ渡る許可の申請をしましたがだめだったのでフランス政府に申請し、フランスへ行く許可をもらえました。自費で行かなくてはいけなかったので、私は、フランスへ行く費用をためるために、働きました。 先輩は3人、先にフランスに行きました。ある日、その先輩から手紙が着きました。「パリでカンボジア文化を維持することを目的とした団体があり、その団体が、早くあなたにパリに来て民族舞踊を踊ったり教えたりする活動をしてほしいとのことです。こちらのみんなでお金を出し合って、飛行機の切符を買ってあなたに送ります。」私はすぐフランスへ出発しました。
 さようなら台湾!さようなら日本の工場!たいへんお世話になりました。家族からは、手紙はもう届きません。私の父や母や兄弟達はどうなっているのか、とても心配しながらの、そして、ひとりぼっちの不安が一杯の旅立ちでした。
 私がパリに着いたとき5ドルのお金しか持っていませんでした。その上、私は、難民としての資格でフランスへ入国しましたが、普通の難民じゃないので、難民ならもらえるフランス政府からのお金ももらえず、語学研修も受けられませんでした。もちろん、住むところもなく、とりあえず先輩で結婚している人の家に泊めてもらいました。本当に、ゼロからの出発でした。私は、人に迷惑をかけるのはいやなので、すぐ住む所と仕事を探しました。

フランスでの生活

 とても小さな古い安いアパートを見つけましたが、仕事の方は、ビルの掃除の仕事しか見つかりません。フランス語もほとんど出来ず身寄りもない私には、あまり良い仕事は見つけられなかったのです。朝6時からの仕事です。ですから私は毎朝5時に起きて地下鉄の一番電車で出勤しなければなりません。家族のもとで、そして、台湾では留学生として気楽な生活を送ってきた私には、朝起きは、とてもつらく、パリの朝は暗くて、特に冬はとても寒くて、本当につらかったです。でも、私は負けません。生まれつき負けず嫌いの性格ですが、それ以上に、私には、芸術家の卵としてのほこりがありました。
 その後、友達の紹介でパリの大きなホテルのメイドの仕事が見つかりました。お給料は、900フラン(そのころで4万円)。それから、2万円の部屋代と電気ガス代を払うと1万5千円ぐらいが食費でした。そのわずかな食費を切り詰めて、私は、フランス語の学校にも通いました。フランスで生きて行くにはまず言葉からだと思ったからです。食費が少なくなると、よく、日本から輸入されたインスタントラーメンを食べました。
 もちろんおしゃれをする余裕などありません。まだ、はたち前の女の子でしたから、本当は、おしゃれもしたかったし少しはおもしろいところへ友達と遊びに行きたいとも思いました。それ以上に私がうらやましかったのは、家族と一緒にフランスに住んでいるお金持ちのカンボジア人の子どもでした。学校に行っていろんなことを勉強し、夏休みには家族と一緒にバカンスにも行けます。私が本都に嫌だったのは、クリスマスやお正月でした。いつもは、寂しさなんか平気の勝ち気な私でしたが、この時だけは、ほんとに寂しい思いをしました。
 ホテルのメイドをしている人達はフランス人もいますが、昔のフランスの植民地だったアフリカの国から来た黒人や白人でもポーランドなどの国からの難民などがおおいです。みんなそれぞれ苦しい生活を送っているのですが、それでもみんな冗談を言い合ったり相談したりして、とてもいい友達でした。こんな生活のなかで私はどんなつらい仕事でもしなければなりません。一人で生きていくためには戦うしかない、世の中はそんな甘いもんじゃないと自分を慰めたんです。

カンボジア民族舞踊と1通の手紙

 こんな大変な毎日を送っていた私ですが、私には、芸術家としての誇りがありました。いつかは、自分の天職である民族舞踊の活動で身をたてたいと、いつもいつも願っていました。ですから、どんなつらい時でも民族舞踊の活動だけは続けました。私は、毎日曜日には、必ずカンボジア民族舞踊の仲間達の練習の場所へ行って、踊りを教えたりお芝居を練習したりしました。カンボジアの国立芸術大学から台湾へ留学していた私たち10人の学生は全員パリに来ており、活動を続けたのです。
 皆んなそれぞれ仕事を持っていたため、練習は日曜日に行いましたが、1年に1回、カンボジアのお正月には、パリの大きな劇場を借りて民族舞踊と古典演劇を上演しました。フランスに住んでいたカンボジア難民だけでなく、フランス人も見に来ました。カンボジア人の中には、とても感動して泣き出す人もいました。カンボジアから遠く離れたこのフランスで自分達の文化に触れられてとても感激した、というような声を何回も聞いて、踊りをやってよかったと心から思いました。私たちは、パリだけではなくロンドンなどの外国でも何回か公演しました。
 1980年前後から、タイの難民キャンプからフランスに来るカンボジア難民が急に増え、私たちのグループに入って一緒に民族舞踊やお芝居をやりたいという人達も増えました。また、カンボジア難民の子ども達がたくさん通っているフランスのある公立の中学校の校長から、カンボジアの文化をカンボジア人の子ども達に触れさせることで、自分達の大切な文化を忘れさせないようにしたいとの申し出があり、私が1週間に1回、非常勤の講師としてカンボジア民族舞踊を子ども達に教えることになりました。
 ある日曜日、メンバーが「あなたへの手紙です。」と、1通の手紙をくれました。ちょっとびっくりしましたがAキ出人cJンボジアに住む兄でした。フランスに来てから5年余り、1975年の革命以来初めて受け取る家族からの手紙でした。内容は「これで20通目の手紙です。カンボジアの国立芸術大学の民族舞踊学科にいた私の妹イム・キムスールを探してます。誰か分かれば教えて下さいお願いします。」手紙を読んで私は、胸がいっぱいになりました。私が、今どこの国に住んでいるか家族は知らないのです。兄は、いろんな国に難民として住んでいるたくさんの友人・知人などにたくさんの手紙を書いて私を探したのです。どんな方法で送ったのか私も良くわかりません。その手紙を受け取れたのは、私が踊りの活動をして、たくさんの人を知っていたからだろうとも思います。
 もし私が踊りの活動をしていなかったら今も家族との連絡がつかなかったかも知れません。生活のため働きながら民族舞踊の活動もする忙しい毎日を送っていた私でしたが家族のことは、忘れたことはありませんでした。その手紙の住所は、私がカンボジアにいた頃住んでいた家の住所とは違っていました。なつかしい私の家がどうなってしまったのか、家族はみんな無事なのか、一刻も早く知りたい気持ちでいっぱいでした。すぐ返事して折り返し届いた兄からの手紙は、両親と姉は無事だとわかり、ホッとしましたが、でも、祖母と4人の兄がポル・ポト時代に死んだこと、親戚も全部で30人死んだことも分かって、とてもショックを受けました。

日本へ

 その後、パリで日本人と出会って結婚しました。結婚式には、夫の両親が日本から来て、夫のフランスの友達も出席してくれましたが。私の家族は、戦争のせいで一人も出席できず、親戚さえだれもいません。幸せいっぱいの結婚式でしたが、家族のいない寂しい結婚式でもありました。
 その後、夫が日本に帰国することになったので、1986年12月日本に来ました。私は、日本語が、ほとんど出来なかったので、すぐ日本語学校に通い日本語を勉強しました。日本に来てからは、踊りの活動を続けることは考えていなかったのですが、いろんな機会に日本人と話すうちに、日本人が、カンボジア人とカンボジアのことをほとんど知らないことに気づきました。難民と戦争と貧しいこと以外のカンボジアの文化というものを是非、日本の皆さんに知ってもらいたい、そのために、わたしのがこれまで続けてきた民族舞踊を役立てたいと思うようになったのです。
 でも、カンボジア民族舞踊は、ひとりでは踊れません。しかも、フランスとは違って、日本に定住しているカンボジア人の数はとても少なく、その上、日本での生活は、フランスと比べるととても忙しいようで、いくら自分達の文化を大切に思っていても具体的な活動に参加するのは難しいようでした。
 そこで、私は、日本人に呼びかけて、カンボジア民族舞踊のグループをつくることにしました。いろんな機会にメンバーを募集した結果、10人程が集まりました。最初は練習場所がないので私の家で練習しました。アパートでしたが、近所の人達に理解と応援をしてもらって、練習をすることができました。日本の生活は忙しいので、踊りの練習するのに、なかなか同じ日に集まるのは難しく、このため、私の方がメンバーの都合に合わせてバラバラに来るメンバーに個別に踊りを教えました。自分の国の文化を知ってもらう為に一生懸命でした。
 熱心に練習する人が多く、1年たらずの間に、人前で踊れる程度のレベルに達しました。そこで、NG0の主催する難民支援バザーや地方公共団体の主催するいろんなイベントに参加して、日本の方々にカンボジア文化を知ってもらうことができました。練習の場所も、夜間の学校施設の地域住民への開放を利用して、小学校の体育館の一角で1週間に1回定期的に練習できるようになりました。 

家族からの手紙

 私は、カンボジア文化を広く日本の皆様に知っていただくため、カンボジア料理も自分で研究して皆さんに食べさせたり、機会を見つけて教えたりしています。料理もとても大切な文化の一つだと思うからです。
また、踊りの活動を通じて知り合った縁がもとで、あるNG0でカンボジア語の会話を教えることになりました。もちろんカンボジア語は、私の母国語ではあるのですが、外国人に教えたの経験はなく、また、日本人の為のやさしい教科書もなさそうでしたので、毎回教える時自分で考えてプリントを使ってみたり、外国語大学のアジア・アフリカ言語をご専門の教授に合って色々なことを教えてもらったりした結果、なんとか、うまくいきようになりました。
 日本にきたことを家族に手紙で知らせましたが、なかなか、返事は来ません。毎日毎日、郵便受けをのぞいていました。そして、ついに、ある日、手紙が来ました。あんまりうれしかったので、中身もよく読まないうちに近所の友達のところへ行って、「家族の手紙ですよ。写真もいっぱい送ってくれましたよ。」と笑いながらみせました。見せて。写真を一緒にみて、私の笑顔はすぐ無くなって、涙がこぼれてきました。父のおそうしきのの写真でした。すぐ帰りたかったのですが、まだ内戦が続いていて、帰れません。私をとってもかわいがってくれた父のお墓参りにも行けないことがとてもとても悲しかったです。

カンボジアへ!

 その数年後、国連のPKOが入り、日本からも、自衛隊や警察やボランティアの方々が参加して頂いたおかげで、総選挙が無事行われ、カンボジアに平和が戻ったので、私は、19年振りに、母や家族の待つカンボジアに帰りました。19年振りに会った母は年をとってはいまオたが、元気で安心しました。そして、お互いに、19年間のいろいろなことを話しました。私がショックだったのは、やはり、ポルポト時代の悲惨な出来事でした。私の家族・親戚の半分くらいの人々が殺されたのは、手紙で知ってはいましたが、母から直接、起こったことを聞くと、改めて、その恐怖や悲しみを実感しました。同時に、外国で20年近くも家族と一度も会えないまま一人で生きていかなければならなかった自分自身のことを思いました。どうして、このようなことが起こるのでしょうか。誰のせいなのでしょうか。私は、母の話を聞きながらやりばのない怒りと悲しみで胸がいっぱいになりました。
 昔プチパリ(小さなパリ)と言われたプノンペンの街は、変わり果てていました。浮浪者や泥棒がたくさんいて、交通もすごく危ないです。私の生まれた家もなくなっていて、その辺には見知らぬ人が住んでいました。
 国立芸術大学の仲間たちも沢山殺されていましたが、生き残った人達は、国立劇場(モハオスラプ劇場)で活動していましたが、収入を得るために、観光客相手の踊りをやっており、芸術の活動という感じはしません。とても残念でした。
アンコルワット遺跡と別の遺跡の訪問もしました。22年ぶりです。私の国が世界にほこる遺跡です。12世紀ころ建てられたのです。カンボジア人の心の中にはアンコルワットがいつもあります。民族の誇りです。でも、内戦のため、これもあれ果てていました。涙が出るほど悲しかった。 日本への出発の日が来ました。ドラマチックなシーンなど見せたくない私は、簡単に、「行ってきます」と言って分かれたかったのですが母は私の手を捕まって泣き出し、話してくれません。もう私に合えないと思い込んでいるのでしょう。・・いいえと私は言いました平和になったら必ず度々来ます。
 さようなら! お兄ちゃん!お姉ちゃん! みんな さようなら!

戦争

あれから、2年あまり、日本のpkoの皆さんをはじめ、世界のたくさんの国々のおかげで、カンボジアは、平和な民主的な国として、再出発しました。まだ、ポルポト派のゲリラの問題などありますがもう大丈夫でしょう。戦争がなければ、私の人生はもっと平凡でふつうの人生だったことと思いますし、私の4人の兄も殺されず、父ももっと長生きでき、私の沢山の友達も死なないですんだことと思います。今私は、日本で幸せな毎日を送っているのですが、戦争のために死んで行った多くのカンボジアの人々のことを思うと、決して、戦争は起こしてはならないと心から願わずにはいられません。